クラクションのたしなみ
日常に不意に訪れる驚きと恐怖。
そう、クラクションだ。
先日近所の国道を車で走っていた時のこと。
僕は十字路を右折しようと、ウインカーを出し且つ後方の車間を確認した上で車速を少し緩めた。
大通りから細い路地に入るような道で、信号もないところだったので僕としては細心の注意を払ったつもりだった。
ところが、その瞬間
パパパパパパ!パプーーーーッ!!
という獣の咆哮にも似たけたたましい音が僕の心を一瞬にして切り裂いた。
何事もなく右折はできたのだが、後ろから一台のセダンが神速のごとく直進して駆け抜ける姿をバックミラー越しに確認した。
「それ、法定速度違反ですよ」
と思いつつも、同時に「身に覚えがないのに一方的に叱責される」ような嫌な体の強張りと「え?何なん?」というやり場のない怒りがこみ上げてきた。
それまではむしろ車内に流れるFMに耳を傾け、なんなら鼻歌まじりにうる覚えの流やりの歌を口ずさんでさえいたのに。不意に訪れる絶望にも近い恐怖体験。
車の運転をされた方なら一度はこういった経験はされたことはないだろうか?
これはドライバーマナーの問題と言ってしまえばそれまでだが、ふとクラクションという機構そのものに疑問が生まれた。
もちろんクラクションは、周囲の安全引いてはドライバーの安全のため、さらには盗難防止にも役立つという正に車にとって必要不可欠なものだ。
音は車種によって異なるし、カスタムによっても代わるものだ。
ただどのクラクションも、基本は単音構成で、押したら押した分だけ音がなる。
アクセル・ブレーキにも通じる超基本的でわかりやすい機構であるが故にドライバーの操作を最もセンシティブに伝えるものである。
そして、その使われ方は実に多様で、ちょっとした挨拶やお礼の時に使われることもある。
話はちょっとそれるが、僕はこの挨拶やお礼の際のクラクションが正直苦手だ。
例えば、僕に道を譲ってくれる車がいたとする。
手をかざしてお礼をするのはもちろんだが、夜暗かったりすると「こっちが見えないんじゃないかしら」と思ってしまう。
そんな時、小気味よく「ププッ」と鳴らせたら、向こうもこちらも実に心地いい。小粋な感じさえする。
ただ、いざその状況を目の前にすると
「うまくクラクションを鳴らせるだろうか」
「すごいプーーーッ!て鳴って、逆に威嚇してしまわないだろうか」
とつい余計な考えを巡らせ、めちゃクチャ緊張する。
僕にとってはそれだけ繊細で少し扱いづらい機構でもある。
話を元に戻すと、このセンシティブさをもっと人に優しくすることはできないのだろうか。自動運転化が進む昨今、近い将来にAIの技術を使って「ボタン一つ押すだけで人の感情を読み取って鳴らす」的なことはできないだろうか。
「危ない!」というときは今まで通り「パパパパパパパブー!」で良いと思うけど、
急いでいる人が鳴らす音は「プププププププ」と急いでいる感を出しつつも、聞く人を脅かさない程度に。
ありがとうとお礼を言いたい人が鳴らす音は「パプッ」と小粋な感じで双方心地よくなる程度に。
最終的には「今トイレがすごく行きたいのでちょっと先に入れてもらえて助かります」が「パゥパゥプゥー、、、」みたいな感じで伝わるようになったらある意味、普通に会話するより便利なことかもしれない。
と、ここまで考えたけど、その前に
そもそもクラクションとパッシング、どちらを挨拶として採用するかをきちんと決めた方が良いかもしれないと思った。
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