パグに全力で吠えられる
みなさんは犬に吠えられたことがあるだろうか。
もちろん飼っている犬が「ご飯食べたい」とか
「かまってかまって」という類の吠えとは別の状況、
普通に横を歩いているだけだったのに、警戒心満載で吠えられる類のものである。
僕は街中を歩いているとよく人に道を聞かれる。
自覚はないが、それくらい地域密着型の面で歩いているのだろう。
一度旅先の宿で宿の人と間違えられ、
同じ境遇であるはずの宿泊客にアクティビティの説明を請われたこともあるくらいだ。
そして、同じくらいの頻度で僕はよく犬に吠えられる。
番犬として飼われているんだろうなーという犬に庭先で吠えられるのはまだ納得がいく。
この犬に噛まれちゃうかも、、という恐怖と共に、その犬の存在意義も感じられるからである。
だけど、愛玩犬と呼ばれる類の小型犬に吠えられるとどうしようもない不安感に襲われるのである。
一人の時ならまだ良い。
飼い主さんと微妙な空気感になりながらも、その場は愛想笑いでどうにか凌げる。
ただし、連れがいる時は本当に困る。
「え?なんで?」「この人に何か取り憑いてる?」
的な思いを言わずとも抱かせてしまっているのではないか。
自ずとその後の会話は気まずいものになってしまうからだ。
昨日の夕暮れ時に愛息と散歩していた時にもそれは起こった。
ちょっとの用事なのか、ある施設の駐車場の恥に繋がれた愛玩犬がいた。
パグだ。
その皺だらけの愛くるしい表情とムッチリとした肉付き、そこから伸びるクルンとした尻尾は
見る人全員を癒してくれる、そんな犬である。
「あ、犬だ。」と息子は動物というか生き物全般好きなので、何の疑いもなく近寄って行った。
僕もその後を「まぁ近寄らなければ吠えられないっしょ。」とタカを括って近づいていった。
遠目から見ても、パグは息子にその愛くるしい尻尾を振っているように見えた。
しかし、僕が2歩3歩と近づくと、その視線は僕の存在に気づいたのか急に様相を変えた。
「ゥグルるるるるるるルッ…」
(え?パグってこんな風に鳴くっけ?)っていうくらいグロテスクな声。
顔の皺もより一層深く刻まれ、まさに鬼の形相にも見える。
さっき息子が近づいたときはあんなに愛くるしい表情で尻尾を振っていたのに…
その尻尾はたまに見かけるセルシオ の正月飾りくらい垂れ下がってしまっている。
次の瞬間、
「ぅワン!ワン!バゥ!バン!」
語尾がバン!に聞こえてしまうくらい激しく(僕に向かって)吠えてはじめた。
案の定、我が愛息から「え?なんで?」という驚きとも侮蔑ともいえる目線を向けられている。
「ほら、もういくよー。」
何事もなかったように大人な対応でその場を立ち去ろうと声をかける僕。
しかし、その心の中はズタズタである。
『犬に吠えられたことによる恐れ』というより
『愛玩犬にすら受け入れられないという悲しみ』に襲われたのである。
こんな時、昔飼っていた犬をよく思い出してしまう。
名前を「シロ」という。
その名の通り白色をしていて、雑種だけど秋田犬が少し入ったまぁまぁ大きい雄犬だった。
『名犬』の定義は様々あると思うが、シロもまたある意味近所では名の通った犬だった。
・自由という名の数えきれない程の脱走
・脱走からの近所の畑の野菜を嗜む行為
・脱走からの近所の雌犬に会いに行く行為
よく家に通報があったことは言うまでもない。
幼い頃、人見知りで引っ込み思案だった僕から見たら、
自由を体現するその姿は羨ましくも尊敬にする値する、まさに名犬だった。
僕とシロとの関係で言うと、僕が10歳くらいの頃だろうか、
シロを連れて近所の畦道を散歩中していた時に、
急に走り始めたシロに7-8m引きづられて以来、散歩もしなくなってしまっていた。
そんなシロの寂しげな最後を見取ったのも僕だった。
僕が高校から帰宅したある日。
いつも僕を恨めしげな目で迎えていたシロが、全く起き上がって来ない。
脱走防止の頑丈な首輪を付けられたまま、シロは眠るように静かに冷たくなっていた。
その時の姿は、20年以上たった今でも鮮明に覚えている。
つまりは、何もしていないのにパグに全力で吠えられる僕は、
シロの呪縛に取り憑かれているからなのだろうか。
いや違うと思いたい。
きっとシロが
「お前は本当に自由に楽しく生きているのか?」
「愛玩犬に吠えられるくらい、お前は周りに優しくないぞ」
と天国から愛玩犬を通して伝えてきているからなのかもしれない。
そう思って、散歩の帰り道、息子に聞いてみた。
「今日寒いし、なんかあったかいものでも飲む?」
「いらない。」
息子は間髪入れずこう発し、小走りに家路へと向かった。
自由に、楽しく、そして優しく生きるのって思っててもやっぱり難しい。
僕は今日も犬に吠えられるたびに自由と優しさについて考える。
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