バカ舌のプライド

僕は「バカ舌ですね」とか「どうせ味わからないでしょ」と
人から言われたことがある。
でも、僕自身は自分がバカ舌であると言う認識はない。
そもそもバカ舌の定義というものがどういうものなのか、
個人によって見解も異なると思う。
でも、数人の人から「舌、バカですね」と
言われたことがあるっていうのは、
きっと何かしら要因があるのだろう。

たしかに、今まで「まずくて食べられない」という記憶はあまりない。
でも「味がわからない」というのとはちょっと違うと思う。
だって、甘い・辛い・しょっぱい・酸っぱい・香ばしいなど
味覚はちゃんとあるんだもの。
強いていえば、「うまい」か「普通」かの2分類でしか分けてない気がする。
「まずい」という概念そもそもないのである。
この2分類による味のヒットゾーンの広さが、
バカ舌と言われる要因なのかもしれない。

人によっては悪球とも言えるボール球を
僕は「打てる」(=「食べれる」)と思うのである。
むしろ、ここで打たなきゃ勿体ない(=残したら勿体ない)とも思う。
それをある人は卑しいと言うかもしれない。
ただしもっと言うと、打つ(味わう)時に脳裏をよぎるのは、
投げ手(作り手)の気持ちだったり、
捕手(後片付けする人)の気持ちだったりする。
これを打ってこそ打者冥利に尽きる。と。
ボール(料理)だって打たれる(食べられる)ために
投げられている(調理されている)のだ。
打た(食べ)なければ、ボール(料理)としての
価値は半減してしまうだろう。

なんかよくわかんなくなってきたが、つまりは、である。
まずいと言う概念の代わりに、
人を思いやる「やさしさ」がそこにはある。

だから、世の中のバカ舌と言われている人。
決して卑しくはないですよ!
そう言ってきた人にはこう言っておやりなさい。

『バカ舌の半分は、やさしさで出来ています。』

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